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「命からがら逃げ回った。何が何でも生き抜いちゃるってね」。23日、60回目の「慰霊の日」を迎える沖縄。20万人以上が犠牲になった地上戦の体験者は年々減っている。戦後、被爆地・広島にも多くの沖縄出身者が移り住んだ。沖縄県久米島出身の太田弘さん(70)=府中町鹿籠2=は、沖縄戦の苦しい体験を振り返りながら、米軍基地が居座る沖縄の現状に「基地がある限り沖縄では戦争は終わらない」と心を痛める。 【遠藤孝康】 久米島は沖縄本島から約100`西の東シナ海に位置する人口約9300人の島。太田さんは、12人兄弟の6男として生まれた。島には旧日本海軍の通信隊約30人が守るレーダ一基地があった。戦況の悪化に伴い、米軍機が度々、来襲。超低空で機銃掃射を繰り返し、かやぶきの太田さん方も焼き払われた。暗い防空ごうの中で、石油ランプを灯し、イモを兄弟で分け合って命をつないだ。当時10歳だった。 45年6月23日には、沖縄本島での旧日本軍の組織的戦闘が終了し、同月26日、久米島にも米軍1500人が上陸。見るかれば殺されると患い、山中を妹2人を連れて逃げ回った。他の家族の居場所も分からなくなった。生きた心地がしなかった。数日後、「米軍は助けてくれる」と聞き、山を降りた。太田さんの戦争は終わった。 終戦直後、在日朝鮮人の一家7人を含む島民約20人を旧日本軍の兵士がスパイと疑って虐殺する事件があった。加わった元日本兵は、虐殺された住民の遺族に「軍の命令。悪いことはしていない」と開き直ったという。「同じ日本人同士が殺し合う。それが戦争の恐ろしさ」と太田さんは話す。1953年、本土に渡り36年間、広島の高校で教鞭をとった。家庭も持った。その間に沖縄は本土に復帰し、戦争の傷跡も薄くなった。それでも、太田さんは「一番いい場所を基地に取られ、米軍機の事故や米兵の事件は絶えない。沖縄は今も目も当てられん状態ですよ」と話す。 さらに、基地を沖縄に押しつけ続ける国の姿勢にも業を煮やす。「いざという時に狙われるのは、基地のある沖縄。国は『沖縄だから我慢しろ』というふうにしか見えん」と語気を強める。 被爆地広島と連帯しようと、広島での沖縄慰霊の日の集会を20年近く開いてきたが、参加者も限られている。現在、広島に住む沖縄出身者は約500人。県人会の会員も大半が戦後生まれで、沖縄の基地問題への関心は薄いという。 「60年たっても沖縄の状況は一向に変わらない。みんな、あきらめの方が大きくなってしもうたんかね」 17/6/23 毎日新聞掲載 |
私は沖縄県久米島で生まれ、十歳の時、久米島での沖縄戦を体験した。当時の人口は約一万人。日本軍の守備隊は三十人。空襲や艦砲射撃の後、米軍千五百人の上陸はあったものの、住民の犠牲者は四十人。そのうち二十人が米軍に抵抗できず、山中を逃げ回っていた日本軍にスパイ容疑で殺害された。 米軍は上陸と同時に、「命は助けるから下山しなさい」とマイクで呼び掛けた。ほとんどの住民は信用しなかったが、一部投降した住民が事実であることを知らせ、やがてほとんどの住民が下山。焼け跡に仮小屋を建てて住み着いた。 間もなくして、青空教室が始まる。中学、高校と順調に学習も進み、高校卒業するころになって将来の進路に悩んだ。農家の六男坊で十二人兄弟(上の二人は戦死)だったため、久米島で生きていくことに将来の展望がなかった。 幸い、岡山在住の伯父の援助で本州で勉強できるようになり、二年間の浪人生活の後、広島の大学に入学。卒業後に教職に就くことができた。定年までの三十六年間はウチナンチエー(沖縄の人)というより、ヤマトンチューとして教職に携わった気がする。 しかし、その間も久米島の山中で命からがら逃げ回り生き延びた体験が、自分の生活の原点であった。常に沖縄の諸課題について強い関心があり、「命どう宝」という沖縄の心と、反戦平和を機会あるごとに生徒たちにも訴えてき
(広島・沖縄県人会会員=広島県府中町) 10/30 中国新聞夕刊 掲載
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